年末

この日記に時候的な話題を載せると寒気が走る。あまりにちぐはぐなので。

でも年末です。アイドルにハマって2度目の紅白が近づき。

いや、そんな話ではない。アイドルの容姿についてあれこれ言うことは最悪の行いであり、褒める場合にすら細心の注意を払わねばなりません。

特に俺のような人間は。

自分の過去の発言について、あれ失敗したな、浅はかだった、と思うことがいまだに多いのですが、悔いても祈っても絨毯にぶちまけたクラムチャウダーより取り返しがつきませんから、諦めて自分を罰する棘の枷をよりきつく締め直すのみです。

自分の娯楽に対する態度には共感と言うチャンネルが乏しく、アイドルについて言及すると、どうしても心ない嫌味が8割を占めてしまう。好きだと言っているのに。

「推しに対する愛情」とか無く、対象が血肉の通った一人の人間だという意識が薄く、対象のコンテンツ性にしか興味が無いので、テレビ出てる姿見て、つまんないなと思ったらつまんなかった、と言ってしまう。

『アイドルとしては好きでも、人間的には好きではないので』

言ってしまえば、自分にとってはアイドルってそういう娯楽なんですよ。

つまんない品評を浴びせて自分の習癖を満足させる、っていう。

終わってる。



根っこにそういう態度がある以上、どう言葉に注意しているつもりでも滲んでしまうし、何ならはっきり言葉にしてしまっている。



アイドルに仮託された夢と祈りの物語にはその辺の人よりはなじみやすい精神を持っているし、自分に合った娯楽だなぁと強く感じる時もあるけれど、結局、彼女らの人生は仮託された夢にささげるものではなく、人々の祈りは空を切って虚無に消えて行くのだよなと我に返る瞬間があって、それはアイドルの顔が良くなかったときです。

所詮紛い物に過ぎないという考えに意識が固着してしまう。
フィクションから覚めさせないでくれ。

顔がお綺麗でなければいけない。完膚なきまでに。


そして健康でいてください。



赤の他人の顔が良くない(瞬間がある)ことにイライラしている俺はまるで健康ではないわけですが。



アイドルは顔だけが取り柄じゃない、けれど、やっぱり顔が無いと始まらないと思う。俺の中ではな。



結局純粋にハマり込める推しがいないと言うのが答えで、じゃあ見るの止めろよ、で終わりです。

精神がもうちょい健全であれば、そうできたのですが。

ラッキーピエロもご立腹

今、好きな曲どもは俺の青春の音楽じゃない。
この曲どもが青春の音楽だったら良いのになと思う。
だが数年後にはこの曲どもも青春の音楽よろしくノスタルジックに、心を締めつけるようになりやがるのか。オーイェーー。

今でよくない?
何で数年待つ必要がある。そのノスタルジーは今すぐ必要なんですよ。

胸に去来する青春の風景も無いくせに、のすたるじっくという感覚を理解する器官は備わっているらしいです。くそったれな脳ミソだ。

「ああ、青春だなあ」

それはお前の青春ではない。

でもいいんですよ。どうせ記憶の中の出来事は「ここ」に実在しない。それは誰にとっても同じことでしょう。

一人で懐かしむためだったら嘘の記憶でも良いんじゃないか、極端な話。


青春の頃に聴いていたわけでもないのに、不思議とノスタルジックに聴こえる曲というのがある。曲の描く世界観に意識を吸いこまれて、居心地の良さと胸が締めつけられるような切なさを同時に感じる。何かを思いだしそうになるが、それが何なのか分からない。とても懐かしい気がするのにな。

他人の記憶が俺の頭に住み着いているのか?
それは、ない。
でも俺の記憶でもない。執拗に美化されて原型を失った記憶の断片なんだろうな。

感性がご立派に育たない限りは、そういう懐かしい感覚に夢を見続けて、安心しきって身を委ねることを止められないだろう。

だから何だってんだ。

意味もなく続いてくながーーーい人生の時間のどこかで一瞬安っっっっっっっぽい夢を見たからって、何かが悪い方に転ぶわけでもない。誰がそれを知る?

意識の働きがずっと均質なんてことはありえない。どこかの瞬間で格別に良いものを見せてくれることもあるし、逆もしかり。

そこに実体が無いからって、誰かが困ることもない。
俺が楽しくて、俺が虚しいだけですよ。

御悩み

自分が面白いと感じるものが世間的にはそうでもなかったり、世間にものすごくウケてるものが自分にはそうでも無かったりということがものすごく嫌だった。けど、その時期は過ぎて各々が好きにやって行きましょうという気持ちが出来上がりつつある。そもそも俺担い手じゃないから直接関係ないんだよ。ばかばかしい。人に合わせて特に面白くないものを「面白いですよね」って言ったところで自分の何かが失われる訳ではない。担い手と違って。

価値観の違いを互いに認め合おう。まあ無理なんだけど。本質的に頭いい人にバカが合わせるのは無理です。適度に距離を取るほかない。でもバカはその防衛ラインを無自覚に踏み越えていざこざを起こす。それを傍から見て「うわぁ大変そう」つってるのが俺です。どちらにも属しきれないので何も言うことが無い。そういうことが多すぎる。

面白いの担い手でも、面白くないの担い手でも、頭いいの担い手でも、バカの担い手でもない。クズではある。


そういえば、アイドル曲って似たりよったりであまりいい曲が無い印象がある。
あれは市場原理が働いた結果、つまりコストや収益に見合った楽曲提供者を揃えた結果一定のレベルに落ち着いているんだと思うのですが、
つまりアイドルに割ける文化的リソースの全体に対する割合はそう変わらないだろうけど、音楽業界がもっと活性化してレベルが上がればもっと平均的に質の良い曲がくるようになる、のでしょうか。
それとも受け手が変わらなければ今のまま?

アイドルにハマり切れないから楽曲に拒否反応が出ているのか、楽曲にハマり切れないからアイドルにもハマり切れないのか、これは両方です。互いが互いに影響している。
 それって可能なのか?無限に影響がループしたら両方0になるんじゃない?価値判断はそれぞれ独立に行われるので無限ループはしないです。それかプラスの要素とも影響しあうので0には向かわないとか?

どうでもいいですね。今の鈍い頭では考え切れない。

にんにく 1片

対象そのものに愛情を抱くということが無く、その対象を鑑賞することで自分の中に生まれる感動とか感心する心の動きが好きだということに気付いてきた。

本当は同じ感情を提供してくれるなら対象は何でも良い。これ、結構誰でもそうなのではないか。ただ、その対象と同じ感動を生み出せるものが現れる確率が十分低い状況にとどまり続ける限り、その人の主観的には「その対象にしか生み出せない感動がある」ということになり、そういう時人は「私はこれを愛している」と言う。外観上は対象そのものへの愛も、対象を愛でる時自分の中に生まれる変化への愛着も同じだし、区別する意味はあまりない。

ただ、俺のようにあんまり物事を認識する解像度が高くないと、この構造の違いが問題になる。体験の固有性が認識できにくいから愛情の対象は代えが利きまくる。何か一つに熱中するということができない。

アイドル見てても誰か一人に夢中になることがない。何見てても周期的に飽きがくるのは、自分にとって替えが利かない何かが無いから。心の隙間は割と何ででも埋められる。ある程度の面白いものであれば。


ただ今は確かに山下美月が好きだし推してる、はず。1秒ごとに「本当か?」と気持ちが揺らいでるけど。ほんの数日前まで3期生では久保史緒里さんを推していこうという気持ちだったけど。

人間が俺にとって魅力的な面とそうでもない面とにセパレートされて存在してくれると助かるんだが。

アイドルってもっと物語性に溢れているものだと思っていたけど、物語を読み出すには結構受け手側の地力が必要だな。

物語性は不可欠ですよ。物語が無かったら単なる半人前タレントなわけでしょう。

夏を吸い取られた

"

こう、相手の勢いを上手くいなして体勢を崩し、そのまま相手の体重を利用してへし折る、みたいな、ね?

こう、これを左辺に移行するとこれとこれが打ち消し合ってxの三次方程式になります、みたいな、。

こう、巨大な予算の作品では様々なしがらみによってクリエーターの裁量は小さくなって自分が本当に作りたいものは作れない、みたいな。

"


このような曖昧なテキストの曖昧な部分を具体化できるようになることが今後の目標。

 こんな楽曲あったら良いなと、架空の楽曲を妄想するのが好きなのですが『時間です。』というタイトルで、この言葉が想起させる様々な場面のイメージを撚り合わせた曲とか面白そうだな、と思っています。
 時間です。という言葉が聞こえてくる場面、例えば大学入試で「時間です。試験を開始してください」と試験監督者が腕時計を見て言う場面とか、「時間です」と刑務官に面会の終了を告げられる場面とか、「お昼のニュースの時間です」でもいいですね。ムスカの「時間だ。答えを聞こう」とかもある。
 直前までの状況が切りかわる合図になる言葉なので、それ自体にドラマ性はなく無機質だけど、ドラマの前触れのようなものもかすかに感じさせる言葉です。
 何かが終わり何かが始まっている、もしかしたら自分の今後の人生を決定づける劇的な変化が始まっているかもしれないけれど、まだそれを知る由もない何でもない瞬間を切り取りたい。解答用紙に鉛筆を走らせるカリカリという音だけを聞いても何が起きているのか知る由もないが、その向こうには確かに誰かの人生を決定づける何かが進行している。そういう緊迫感。カリカリという無機質な音だけを取り出してその中に潜むドラマ性を呼び起こしたりとか。


『時間です。』よりもっと良いキーワードがありそうですね。

『待って下さい』とかかな。これは当事者性が高くて無機質じゃないし、ちょっと長いな。まあこれはドラマ未満の曖昧な領域を言葉の上でも表現したら面白いんじゃないかというところまでしか考えてないし言葉は何でもいいですね。

 上の様な妄想を始めたのはアイドルにハマってからこのアイドルにこういう楽曲あったら良いなと考えだしたからです。
 アイドル曲なら断然ファンに向けた嘘と本音、本来の自分とアイドルとしての自分の間で葛藤する様をテーマにした曲を聴きたい。もちろんそのことを直接歌詞にするのではなく、別の状況になぞらえてという形が良いと思うのですが。
 別の状況って何だろ。やっぱ恋愛なのかな。でもファンとアイドルの関係を恋愛関係になぞらえて歌うのはキモイですね。そもそも恋愛関係では自己像と他人の中の自分とのズレはアイドルにとってのそれに比べて大きなテーマではないから不適。もっと曖昧な人間関係の方がいいのかな。クラスメイト?
 いやこれ、多分答え分かった。"親子"ですね。これは自分にしては珍しく割と正解だと思う。でも毒がきつく挑発的で親子関係がまともな人たちには一切共感されないだろうからメジャーな曲にはなりえないんだろうな。ハハハ、架空の楽曲のウケを心配するのアホみたいだ。("みたい"ではない)

 というか親子のことを歌ったら親子の歌にしかならないだろ。でも親子関係もしつこく干渉されてうっとうしく感じる時もあるが、やっぱり必要だし愛おしいと思うこともあるみたいな相反する感情の間で揺らめいたりしそうだし、そういうとこアイドルとファンになぞらえ得るんじゃないかな。これもキモイか。

誰もが見た

アイドルって不思議な職業だなと思います。

歌やダンスや舞台はやるけれどもそれらの技能だけで評価されるわけではなく、人気が出れば歌もダンスも下手でも許される部分がある。
勿論その先の芸能界でのキャリアを見据えるならば様々な経験を積んで自分の技能を磨かなければいけないんでしょうが、アイドルとして人気になる上ではそれらの技能は必須ではない(活動の幅、露出機会の寡多に関わってくるので全く不要ともいえないけれど)。

要はかわいい、推したいと思わせてファンが付けばよい。
これは極論ではあります。でも、それを地でいってる(ように見える)アイドルが実際にいるんだよな。

今を時めく人気アイドルグループのエースといわれる人。
何年もやってるのにトーク力が無い、やる気が無い、周りに気を使わせてばかり、とネットで批判されるのを見かけます。
それなりにファンである自分から見てもやきもきすることは確かにある。

でも、アイドルだから。
他の形だったら彼女は認められなかったかもしれないが、実際にはアイドルだからアリ。アイドルという不可解な生態系の中では全然アリ。

圧倒的男性人気。
アイドルという枠組みが無かったら、評価され得なかった無比の才能。
握手会の女王。現環境で最強。


容姿のかわいさ、とかあるいは言葉だけでは言い表せない魅力。人の目を引く力。そういう何とも曖昧な力が飛び抜けていたために、人間的に一般人とそう変わらない、良くも悪くもよくいる女の子なのにもかかわらず一般人とは全く違う人生を歩んでいることの不可思議さ。神妙な気持ちになります。

一生賢くならないまま死んで行くんだろうか。何だか不思議な感慨が湧いてくる。本当に不可解な人生だと思います。それを肯定するアイドルという仕組みは本当にすごい。おれにとって“願いや祈り”とはこれのことです。つまり、才能のある人間が自分の才能を過不足なく世間に認められて生きていけること。だからおれにとって西野七瀬は一つの奇跡です。消費に値する奇跡。これからも敬虔な気持ちで眺めて行こうと思います。

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個人PVという文化、本当にいい。
乃木坂は「クリエイターの食指が動く素材」なんですね(何かの記事で読んだ)。

確かに映像映えする人たちだな〜と思います。


私は血液とか浮き出た静脈とか歯とか傷跡にフェチズムがある人間なので、伊藤万理華さんの『ナイフ』が好きですね。
クリエイターの手によって映像の中に立ち現れる一人の少女の犯しがたい美しさが好きです。

これはコンプライアンス的にもアウトなんですが伊藤万理華さんが採血されてる映像見たい。撮り方次第で個人PV的な質感のある映像になりますよね。個人PVにはなりませんが。
差し出された生白い腕、注射針の鋭い先端がその滑らかな肌に沈み込む瞬間、かすかに眉をしかめる横顔、透明な筒に赤黒い血液が満ちて行く映像が脳内に克明にフラッシュして、『ナイフ』のカット割りをこんな異常な妄想に流用する俺は本当に終わってるなと思いました。

何かを演じることと同時に素の魅力をファンに見せることも求められるところがアイドルは特殊で、それがアイドルにしかない面白さかな、と。
時には役柄の魅力よりも本人の魅力を引き出すことが演技の目的になっていることも。

 欅坂がドラマをやりますが、あれもドラマのために彼女たちがいると言うよりは彼女たちのために用意されたドラマだと思います。設定がアイドルとして彼女たちが日々置かれてる状況のアナロジーになっているし、教室が舞台になっており絶賛青春まっただ中の彼女たちの感覚ともオーバーラップするような10代の人間関係の複雑さや葛藤などが描かれるのでしょうし、演技とは言え他人ごとではない部分もあるんじゃないでしょうか。サイレントマジョリティーがまさにそうだったように、彼女たち自身が共感して真なる思いをこめるからこそ表現として見る人に伝わる何かになるんでしょう。しかも、それは今の彼女たちにしか出来ないことで、来年の方が演技がうまくなったとしても、今の思いは来年には絶対に表現できない。そういう今だからこその何かを見せて欲しいですね。釈迦に説法ってやつですが。
 見る側は予習として各種雑誌のインタビューやブログなり読んで彼女たちの現在地を確認しておくと良いんでしょう。メンバー同士の関係にも注目しておくとよさそう。ドラマの登場人物たちの人間関係が実際の彼女たちと重なる部分だったり、または真逆な部分があって、実際と比較しながら見ると深まることもあり得る。
 作品の向こうに彼女たちの今があります。見極めていきましょう。